大山健康財団賞受賞者一覧(第11〜20回)

第 1回(1974年)~第10回(1983年) 第11回(1984年)~第20回(1993年)
第21回(1994年)~第30回(2003年) 第31回(2004年)~第40回(2013年)
第41回(2014年)~第43回(2016年)

第11回(1984年)~第20回(1993年)

(所属は受賞時の所属・敬称略)


年度
氏 名 所属・役職等 業績内容
第11回
1984年度
須藤 昭子 ハイチ国立シグノサナトリウム
所長
ハイチ共和国は世界の最貧国に属し成人の死亡の第1原因は結核、乳幼児の栄養失調率は80%という劣悪な衛生状態の島国である。そのハイチで、結核患者の救済のために孤軍奮闘すること8年間(1977年ハイチ国立シグノサナトリウム赴任、現在サナトリウム所長)におよんだ。入院患者1人1日食費60円にすらこと欠く始末の中で病床165床を職員57名と共に切り盛りしてきたが、患者は結核のみならず貧血、マラリア、腸チフス等でそれらの合併症患者も多く、1984年入院患者約550名のうち、103名の死亡退院が出たほどである。家庭においても1日1食程度しか食べられない貧困家庭の患者は、シグノサナトリウムに殺到する。重症患者のために軽快した患者を退院させるが、働く場も住む家もないため、病院に再び舞い戻ってくる者もいる。怖るべき貧困と不衛生のただ中で、須藤医師はアメリカ、カナダのカトリック団体の寄贈薬品のほかに自分自身の費用で薬品を購入投与している。朝鮮で生まれ、広島市で育ったこの日本人女医は、今、ハイチの結核患者にママと呼ばれてしたわれている。
第12回
1985年度
山本 保博 日本医科大学
救命救急センター
助教授
1968年日本医科大学卒業後、同大学東南アジア医学研究会医療班員として数回、タイは北部のチェンマイを中心に、そしてインドシナ地域の医療活動、カンボジアの医療調査・難民救援と活躍してきた。その間、14年にわたり述べ18ヵ月もの海外での活躍である。
とくに1985年は外務省を中心に組織された国際救急医療体制(JMTDR)から派遣され、エチオピア被災民救援医療活動に従事した。(約4ヵ月)このチームが活動したのは、エチオピア北部チグレ州のメケレ(標高2,300m、人口約4万)で、この町の周辺に8.9万の被災民が食料と水を求めて集まっていた、メケレは昼間の気温は25℃、夜間は5℃にまで低下し風が強く吹くので、栄養失調や重病の被災民は明方に死んでゆく。山本医師は2名の日本人看護婦と共に救援医療活動をつづけた。1985年9月19日、メキシコ市はマグニチュード8.1という大地震に襲われた。この時、山本医師は日本政府の派遣医療団の団長として地震発生後39時間で現地に入っている。そして、メキシコ政府や現場がいかなる医療活動を必要としているかを調査し報告し、この迅速な対応がメキシコ政府に高く評価された。
第13回
1986年度
紺山 和一 WHO専門家
(眼科学)
順天堂大学眼科の故佐藤勉教授並びに中島章教授の門下生として研さんを積み、卒後ただちにタイ国へJICAの専門家として赴任、1967年以降タイ国内の病院で治療と現地医療人の指導にあたり、1974年にはバンコクにあるタイ国立マヒドール大学の客員教授に就任した。そして1978年には、タイの衛生省の要請で、“失明防止計画”の準備をはじめ県病院の医師、看護の眼科教育等、着々とその成果をあげ、プライマリー・ヘルス・ケアーの一環として、白内障失明者の救済手術を常時大量におこなえる方式を編み出すにいたった。WHOは、この成果に着目して1978年以降インド・バングラディシュ・スリランカ・ビルマ・インドネシアと紺山博士の“失明防止計画”を拡大普及せしめた。1984年には、WHO本部にスタッフメンバーとして招請され、その地域は、東南アジア・西太平洋・アメリカ地域と拡大し、白内障大量手術等の保健サービスの研究を携え米国Johns Hopkins大学やLondon大学で教鞭をとるに至っている。
第14回
1987年度
金子 義徳 フィリピン熱帯医学研究所専門家
チームリーダー
東邦大学医学部長という重任を果たした後の人生とその学識を共に国際協力に捧げつくした。はじめはWHOのコンサルタントとしてフィリピンに赴いたが、1978年からは、JICAの事業である熱帯医学研究所の建設計画に参画し、約10年この計画の成功に力をそそいだ。‘88年3月をもって研究所建設のチームリーダーの職務を完遂し、このことはフィリピン側に高く評価されている。
第15回
1988年度
宮崎 亮 日本キリスト教
海外医療協力会所属
1960年代よりアフリカ、東アジアで現地民の医療に力を尽くし、特にバングラディシュには日本キリスト教海外医療協力会の要請で、1980年より着任した。通算6年9ヵ月の間安子夫人(小児科医)と共に働いた。
第16回
1989年度
蛭海 啓行 国際家畜疫病研究所(ILRAD)
細胞生物学部長
アフリカ・ケニアの首都ナイロビにある国際家畜疫病研究所で14年間“眠り病の病原虫・トリパノソーマ”の培養技術を開発して来られた。この技術が、トリパノソーマ症の基礎研究に役立ち、将来その成果は総合してワクチンあるいは眠り病コントロールの成功が期待されている。このような研究開発に蛭海御夫妻が努力された。
蛭海 和子 国際家畜疫病研究所(ILRAD)
研究技師(組織培養)
第17回
1990年度
伊藤 邦幸 日本キリスト教海外医療協力会所属
ネパール・オカルドウンガ診療所地域保健プログラム責任者
1969年より聡美夫人(医師)と共に、ネパールの山間僻地オカルドゥンガ診療所に赴任し、1977年まで医療協力の現場で働いた。その後、JOCS(日本キリスト教海外医療協力会)の理事として、東南アジアの医療協力に活動、1986年には、再度ネパールに赴任のための準備中に聡美夫人を事故で失うという悲運にみまわれたが、1988年オカルドウンガ地域の保健衛生の改善普及にあたるため赴任、今日に至っている。
第18回
1991年度
国井 長次郎 財団法人家族計画国際協力財団 理事長
財団法人東京都予防医学協会 理事長
社団法人日本家族計画協会 会長
1949年に(財)東京寄生虫予防協会を設立し、日本国全土に寄生虫予防運動を展開し、輝かしい成果を挙げた。同時に(社)日本家族計画協会を発足させ、日本国全域の市町村に家族計画の思想と普及を浸透させた。日本国の経済復興の足取りにあわせ、高度成長の波にのっていち早く成人病(脳卒中・心疾患・癌)の予防医学をとり込み、これを(財)予防医学事業中央会の結成にまで導いた。1974年には、日本国が国際的に果たすべき役割が問われはじめた時代の要請に応じてアジア寄生虫予防機構(APCO)を発足せしめ、かねて実践中の母子保健と家族計画を合一し、発展途上国に対し、素朴な寄生虫予防のサービスをもとに地域社会に溶け込み栄養・家族計画とその輪をひろげて行くIntegration Project(I.P.)に着手した。
このI.P.の考え方は、国内より国際的に注目され、メイドインジャパンの独特な戦略として評価されている。今日は、I.P.の実験国は中国・アジア地域にとどまらず、中南米・アフリカにまで及んでいる。
第19回
1992年度
川名 林治 岩手医科大学
教授
母校の細菌学教授として後進の指導にあたると共に、その幅広い伝染病学の学識経験を発展途上国の医療保健に生かすべくJICAの要請でアフリカ、ケニア国に赴かれた。JICAが計画したナイロビの中央医学研究所プロジェクトの完成に果したその役割は髙く評価されている。
第20回
1993年度
中嶋 宏 WHO事務局長 1988年WHO事務局長にご就任以来1993年7月に再任され、全世界の市民の保健衛生の保持増進に長期間にわたり尽力されている。「2000年までにすべての人が健康に」の標語のもとに、健康をもてる国ともたざる国の格差をなくすべく、種々のプロジェクトを設定、着々と成果を挙げつつある。その努力と実績は高く評価されている。