平成29年度贈呈式

 去る3月15日(木)午前11時30分から霞が関ビル35階の霞ヶ関東海倶楽部(東京・霞が関)において、平成29年度の公益財団法人大山健康財団の贈呈式が開催され、第44回学術研究助成金並びに第44回大山健康財団賞及び大山激励賞が贈呈されました。

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式次第
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贈呈式会場風景

 贈呈式は、本財団竹内勤理事長が急遽欠席となったため神谷茂専務理事の開会の挨拶で始まり、続いて神谷茂専務理事より学術研究助成金並びに大山健康財団賞、大山激励賞の選考経過が報告されました。

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開会の挨拶をされる神谷茂専務理事
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選考経過を報告される神谷茂専務理事

 平成29年度第44回学術研究助成金は前年度に比べ200万円増額し、63件の応募申請の中から選考委員会で厳正審査の結果、特に優れた10件の研究課題に対し学術研究助成金各100万円を贈呈することに決定したもので、竹内理事長に代わり神谷専務理事より10名の受贈者に学術研究助成金総額1,000万円が贈呈されました。
 平成29年度の第44回大山健康財団賞については2件、大山激励賞には5件のそれぞれ候補者の推薦があり、選考委員会で厳正なる審査・選考の結果、大山健康財団賞には「永年発展途上国における自然災害や紛争地への緊急医療支援並びにザンビアにおける地域保健医療活動への支援及び心臓外科手術実施への技術指導等に尽力された功績」が高く評価された吉田修氏が受賞者に決定し、大山激励賞には「永年、カンボジア国、ミャンマー、ラオス等において小児看護のスペシャリストとして小児HIV感染症等への医療支援に多大な貢献をされた功績」が高く評価された赤尾和美氏が受賞者に決定したもので、神谷専務理事より大山健康財団賞を受賞された吉田修氏には賞状、記念メダル及び副賞100万円が、大山激励賞を受賞された赤尾和美氏には賞状と副賞50万円が贈呈されました。

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学術研究助成金受贈者
代表挨拶の小川基彦氏
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学術研究助成金を受けられた先生方
後列左より 上村大輔 谷口委代 坪川大悟 新倉 保 平松征洋
前列左より 青沼宏佳 出野智史 神谷専務理事 小川基彦 尾原秀明 の各氏

 学術研究助成金受贈者を代表して挨拶された小川基彦氏は、「光栄にも採択されるのは、今回で二度目になる。実は、挨拶させていただくのも今回が二度目である。前回の研究テーマは、リケッチア感染とオートファジーに関する研究というものであった。受賞式の翌日に東日本大震災が起きた。世の中が緊迫する中、私共の研究所でも電力不足などからの理由から、思うように研究を進められない時もあった。あれから7年が経ったが、今回の研究テーマはインドネシアのボゴール市周辺におけるリケッチアの侵淫状況に関するの研究である。インドネシアは日本と非常に親密な国である。ボゴール市は首都ジャカルタ市に隣接する比較的大きな都市で、周辺にはまだ手付かずの支線が多く残されている。この二つの大きな都市を結ぶ路線には地下鉄の千代田線の引退した車両が第二の人生を送っていることでも知られている。今回はボゴール農業大学の教授を協力研究者に迎え入れ、インドネシアボゴール地方のリケッチアの侵淫状況の調査のみならず、インドネシアにおけるリケッチアの研究の種を蒔くこと、そして将来のリケッチア研究を担う若者を育てることも課題としている。より広い視野に立った挑戦になる。今回いただいた研究助成金を最大限に活かすために努力していく所存である。」と喜びの言葉と今後の抱負を述べられました。

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大山健康財団賞を受賞し
挨拶される吉田 修氏
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大山健康財団賞受賞者の
 吉 田  修 氏

 大山健康財団賞を受賞された吉田 修氏は、「本当にこんな立派な賞を頂いて恐縮している。余りこれまでこんな風に評価されたことが無かった。徳島の片田舎で細々と日本の数人のスタッフでやっている小さなNPOで、たまに徳島新聞にちょこっと載るくらいのことだったが、思い返してみるともう30年アフリカ、カンボジアもそうだが、関わってきて、多少の貢献はできたのかなと思っているところである。この間に、色んなボランティアスピリットの塊のようなスタッフといい出会いが常にあり、色んな方といい仕事ができて、そういう人達が今、世界中に散らばって、今も活躍されているOB,OGというか、そういう方も巣立って行って、貴重な世界の人材になっているのではないかと思っている。これからも、主にザンビアだと思うが、人々の健康のために世界の格差を少しでも縮めるためにやっていけたらなと思っている。それから、徳島の方でも地域医療も一生懸命やっていて、医者3人であるが3人とも国際協力をやりながら地域医療もやっている。地域医療と国際貢献をする医者のメンタリティーというのは非常に近いところがあって、うちの医者3人もそうだが、専門は何だから他の患者は見ないとかは決して言わない総合診療的なことをいつもやっている。そういう診療所である。丁度、JICAの助成金が終ったところで困っていたところなので本当に有難い。本当に小さなNGOなので予算も小さくて本当に助かる。大事に使わせていただく。」と感謝の言葉と今後への決意を述べられました。

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大山激励賞を受賞し
挨拶される赤尾和美氏

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大山激励賞受賞者の
赤 尾 和 美 氏 

 大山激励賞を受賞された赤尾和美氏は、「本日、栄えある賞をいただきましたことをとても感激している。思い起こせば、ふとした思いつきで看護師になり、ふとした思いつきでハワイに行き、ふとした思いつきでそこでライセンスをとり、ふとした出会いによりカンボジアに行った。カンボジアに行った時は2カ月の予定で行ったが、まさかこのように長い時間を途上国で過ごすということは全く考えていなかった。かれこれ20年近くになるが、私はほとんど通常カンボジア、ラオスという国で活動しており、時々、日本に戻ってくるという、ほぼ外国人状態になっている状態であるけれども、思いもよらない出会い、そしてHIV感染症との出会いもそうであったが、思いもつかない人生を辿ることができた。これからも、この出会いを大事にして、そしてこの大山激励賞はこれまでで出会った人達からサポートしてくれた人達まで皆さんで受取ることができた賞だと思ってこれからも頑張っていきたい。」と喜びの言葉と今後の抱負を述べられました。

「受賞者挨拶」の後、大山健康財団賞受賞者の吉田 修氏による『記念講演』が行われました。(講演要旨については最後段参照)

 最後に、本財団の中里 博常務理事より「閉会の挨拶」があり「本日、学術研究助成金並びに大山健康財団賞及び大山激励賞を受けられた先生方には改めて心からお祝いを申し上げる。それぞれ賞をお受けになられた先生方が、この受賞を励みとして、益々ご活躍されることを心から願っている。先程、受賞の先生方からの心強いお礼のお言葉を頂いたが、こうしたお言葉が本財団にとっても事業をやって行く上で、何より大きな励みとなる。また、記念講演をしていただいた吉田修先生には、途上国において、医療支援活動に励んでおられる先生のご苦労をお聞きし、本当に頭が下がる思いである。先生のこうした現地活動に係る費用が、徳島での診療活動や農業活動とTICOをはじめ吉田先生の活動に賛同される方々からの寄附収入やボランティア活動で賄われているということは、もう大変な驚きである。今後とも、どうか、お身体を大切になお一層途上国への医療支援活動にご尽力いただきたい。」と述べられました。

引き続き、受賞の先生方を囲んでの『記念祝賀会』に移り、本財団の原隆昭評議員長のお祝いの言葉と乾杯で始まり、盛会のうちに散会となりました。

祝 賀 会 会 場 風 景
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受付風景
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司会の中里常務理事
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お祝いを述べられる原隆昭評議員長
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乾杯をされる原隆昭評議員長
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大山健康財団賞受賞者 吉田 修氏 による『記念講演』-要旨―
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 私が初めてアフリカに関わったのが青年海外協力隊で、臨床医の募集があり、外科医で行きたいと言うと全ての手続きをJICAでやってくれて、2年間やって来た。
 90年代のアフリカのパラオで3番目に大きな国立病院で、入院患者は多いときは900人、ベッドは300しかなくて2人ずつ寝ていて、その間に床にマットを敷いてまた寝ているという状況であった。
 医者は私を含めて5人、外科医は私だけだった。行った時にはモニターはないわ、血圧計はあるけど巻かない、脈を診てOK、これがOKじゃない。余り怖いからJICAにお願いして血圧計とかを買って頂いた。 
 非常に残念だったのは、2年間の任期だったが、私も結婚して妻子を日本に置いて来ていたので延長する訳にもいかないという状況で、後任を早くから要請していたが、残念ながら後任が見つからない。これだけの手術のニーズがある病院で結局、外科医がいなくなるという状況となってしまい、国際協力の難しさを初めて感じた。
 その後、日本に帰って徳島の大学病院で心臓外科医をやっていたが、アフリカとのギャップにちょっと悩み、やはりアフリカでまだまだやりたいことがあるなということで、AMDAに参加した。
AMDAでは色んなところに行ったが、その当時は菅波代表の病院に務めながら、突然、菅波代表に明日からルワンダに行ってくれる?と言われる。そういう状況を何年か続けた。
これはルワンダの紛争の時、ザイール側の難民キャンプでAMDAが担当した小さな1万人規模の難民キャンプで病院替わりにしていたテントである。難民の中をよく探すと、医療者がいて、探せば看護師さんとかお医者さんがいる。そういう人に出来るだけ働いてもらい、我々は出来るだけ裏方をやる。95年にモザンビークの戦争が終わって、何と160万人の難民を半強制的に帰国させるという国連の大プロジェクトがあった。160万人というのは徳島県民の倍の数である。帰ってくる難民の方々の医療の世話をしようということで、カザ州というところに我々は入り、戦争で破壊された村の診療所を再建したり、そこのスタッフの再トレーニングをしたりしながら、村の生活の再建だとかのお手伝いをした。たまたま運の悪いことにこの年が大干ばつで、村の人は農業をするしか生きて行く術がないが、干ばつのため種を蒔いても全然育たなかった。戦争が終わったところなので、まともな配給もある訳じゃなく非常に厳しい生活になった。
 クリニックを再建したりするのが主な業務だったが、空いた時間には何もない村を出来るだけ回ろうということで巡回診療もやっていたが、こういう村が無限にあった、非常に途方もないというか虚しいというと変だが、何もしないというより何かしようということでやっていた。
こんなところに、私、実は家族を連れて行っていた。長男はこんなところを見ていたからかどうか分からないが医者になっている。
その後、縁があってAMDAとJICAが初めてNGOとJICAが組んで医療のプロジェクトをやるということで、海外ヘルスケアプロジェクトというのをルサカでやった。その準備をして計画を作れと言われてザンビアへ行ったのがザンビアとの出会いであった。この後、JICAとAMDAはTAKE2まで10年間、海外ヘルスケアのプロジェクトをやった。
その後、TICOが本格的にここで活動することになる。最初は「徳島で海外協力を考える会」という勉強会だったが、それが本格的に活動をやろうということで、最初にやったのが日本的な一般市民もちゃんと呼べる交通事故の現場からでも電話したら来てくれる救急隊を作ろうということになった。こういう救急隊というのは世界では余りない。特にアフリカにはない。多分アジアにもあまり無くて、有料だったり、お金のない患者はすぐに降ろされたりするとか、そういう話を聞いている。ザンビアも救急車はあるが、末端のヘルスポスト、ヘルスセンター、医療施設から病院に送る保健省が動かす救急車は一般市民は呼べない。そこで、民間と警察署と連携してボランティアを半分要請して救急隊を作った。これは非常にアフリカでは珍しいケースである。丁度、神戸の震災の後、神戸の救急隊の方が世界に恩返しをしたいということでこういうNPOを作られて、我々と連携をして何度も何度もザンビアまで来て頂いたり、神戸に研修に訪れてレベルアップを図って頂いた。この救急隊は実は今も活動している。
これは最近12年ぐらいの話であるが、2002年にまたザンビアでも大干ばつがあり、その時に我々も農村にも出て行かなければいけないなということで、干ばつに強い村づくりをやろうということで、Water、Agriculture、Health、Education、水をどうするか、農業をどうするか、健康をどうするか、それに教育も必要だということで、その4つの柱で総合的な村づくりをやろうと色々やった。その中のHealthのところだけちょっとお話をしたい。
JICAの草の根パートナー事業という中で、助成金を3年、3年、3年と3回頂いたが、これが最初の事業である。私が住んでいる吉野川市の倍位の広さの地域に医療施設がない、そういった所は実はザンビアには一杯ある。そういった所を選んでやった。これがザンビア政府が管轄する一番末端のヘルスポストと呼ばれるクリニックであるが、ここには標準的にはお医者さんは派遣されない。ナース1人と助産師1人だけである。約束通りザンビア政府はここにスタッフを派遣してくれて、その広い地域の保健医療をここが全部賄った。例えてみれば、私の吉野川市には、人口はここの倍位であるが35くらいの病院とクリニックがある。今でも医者はいないが、それでもこれができたことによってはるかに良くなった。村の人たちのボランティアを養成して、その人たちが活躍するというのがザンビアのスタンダードで、国の方針でもある。色んなボランティアのカテゴリーがあるが、コミニティヘルスワーカーとかチャイルドヘルスプロモーターとかHIVのことをやるボランティアとか色んなカテゴリーがあるが、それのちゃんと3ヵ月くらいの研修を受けて頂いて、頑張って続けて行って頂く。これがなんと、全く無報酬の本当のボランティアでやっている。これがちゃんとやって行けるかどうか、サステナビリティがあるかどうかというところが最初からの問題で、そこをどうやって克服するのかということにずっと悩み貫いてやっている事業である。それが去年まで10年くらいやっていたことである。
これはルサカであるが、95年頃までは何にもなかった町で、車もまばらだったが、今はもう300万都市で、町中が車で大渋滞するようになって、こういうショッピングモールがもう10くらいできた。昔だったらちょっと考えられない。普通のザンビア人が車で乗り付けてここに買い物に来ているというちょっと不思議な、90年代には考えられない光景が今できている。だから今、中流以上の人、車を乗り回している人はメタボの生態である。日本と同じで生活習慣病が大問題になってきて脳卒中とか心筋梗塞で死んでいるが、残念ながら大学病院でまだそういった課程は出来ていない。全国チェーンのフライドチキンのハングリーライオンという大人気の店で、そうしたファーストフードを食べて車を乗り回しているそういうザンビア人が今激増している。問題なのは生活習慣病という概念を殆どの人は知らない。高血圧がどうだとか、健診のシステムはまだないし、それをこれから考えて行かないといけないと思っている。
少し、ザンビアを紹介すると、人口1600万人位で年間に子供が64万人位生まれている。これはユニセフの数字であるが。5歳までに毎年3万9千人くらいが亡くなっている。これでもかなり減った。我々が活動を始めた頃というのは千人中5歳までに191人死んでいた。ですから2割弱の子供が5歳になれずに亡くなっていたという社会だったのが、2001年からミレニアム開発目標という国連が定めた目標の中に子供の死亡率を下げるという数字の目標を入れて、世界中の協力で頑張った。我々も多少貢献できたかなと思う。この数字は、これも地域差があり、都市に近いところではもっと差があるようだが、平均すると64までは下がった。日本はというと、最高レベルで3である。だから、小学校に行っても、皆さんがここにいるのはこの数字のお陰ですよ、これがザンビアだったら5分の1の子はいなかったかも知れない、という話をする。
これを、今60くらいをもっと下げようと思うと、勿論マラリアもまだまだあるし栄養失調も田舎に行くとあるし、HIVもあるし、下痢して死ぬ子もいるし、肺炎の子も沢山いる。だが、やはり先進国では助かる命、アフリカだからちょっと諦めてと、これまで思っていた心臓の病気とか、もうちょっと高度な医療が必要な病気もこれからは助けて行かないといけないという時代に入っていると僕は思っている。ただ、各国もそうだが、まだ日本でも理解して貰えない。アフリカ自身もまだ手術は早いのではないか?みたいなニュアンスがちょっとあるが、そんな時代じゃないと思っている。日本で言うと昭和40年代という感じである。その頃、日本でも心臓の手術が始まった。我々の2世代前くらいの先生達が心臓の手術を始めた。そんな時代じゃないかと思っている。実は、案外多い病気である。例えば心臓の生まれつきの奇形というのは世界平均で1%位。そのうちの半分位の子供は手術しないと助からない。だから、私の診療所でも小児科はやっていないが子供の患者も診ている。胸に傷がある子が数人いる。それくらい実は頻度が高い。この前、保育所の検診に行ったら1人、この前ザンビアで手術した子と同じ病気の子供が胸に傷があって元気に来ていた。だから、これだけ64万人の子供が毎年生まれると、0.5%とすると3000人を超える。毎年。3000人位の子供が心臓の手術をしないと助からない。残念ながら、診断も受けられないままで死んでいく子供もいる。それプラス日本では無くなったが、溶連菌感染の後に起る弁膜症が多分3000人くらい出ているんじゃないかと言われているが、それだけでも年間6000人位の子供の手術を本当はしないといけない。それが殆ど出来ていないという事である。だから、これだけの数という事は、年間39000人死んでいるうちの心臓の手術をちゃんとやれば6000人位助かる。これは非常に大きな割合である。それをなんとかしたいなと今頑張っている。だから、心臓外科がザンビアで定着すると乳児死亡率をかなり減らせる可能性があるんじゃないかと思っている。それからもう一つの問題は大人の方であるが、生活習慣病がこれから本当に重大な病気としてザンビアでは捉われなければいけない、そういう時代に入っているから、皆様方もひょっとして心臓にステントを入れているとかバイパス手術したとかという方もおられるかも知れないが、私の診療所には何百人もいる。そういう処置も今ザンビアでは全く出来ていないので、そちらの方も是非やっていかないといけないという事である。
生まれつきの心臓の奇形というのは色んな種類があるが、代表的なのは、頻度からいうと、心室中隔欠損、心房中隔欠損、動脈狭窄、動脈管開存症、この中で割と頻度が高くて心臓を止めなくても出来る手術というのが、動脈管開存症である。これを最初にやろうじゃないかということで昨年の秋にトレーニングを始めて3例、ザンビア人の執刀によって成功させることが出来た。これは、豚の心臓を使ってトレーニングしているところである。人工心肺に乗せるところまでちゃんとやろうということでやっている。4人の中堅の外科医をザンビア大学の学長が選んでくれて、この4人を心臓外科医に育ててくれという事で、この3週間のトレーニングの間、完全に休みにしてくれた。向こうもかなり本気でやってくれている。このプロジェクトの責任者は順天堂でずっとトレーニングを受けた先生である。
これが1例目の2歳の女の子です。動脈管開存症、心臓が非常に大きくなっているのが分かるが、正常の心臓はこうである。これが真ん中に左に寄っているのが、白い影が心臓であるが、これが正常で、この子の心臓がこんなに大きくなっている。
これが手術の風景で、ザンビア人2人が手術者と第一助手である。僕は横で見ているだけです。口は出すが。動脈管開存症というのは、もともと大動脈と肺動脈の間に管がある。というのは、お腹の中にいる間は呼吸をしないので、肺に血液を流す必要はないので、無駄な血液をそちらに流さないでおこうという管があるが、生まれた時にぱっと閉じないといけない。不思議なことにそこで閉じてしまわないでそれが残ってしまう子がいて、ここから、大動脈の方がずっと圧が高いので、全身に流れて行かないといけない血液が肺の方に流れて行って、またすぐ心臓に戻ってくるという、空回りする病気である。だから血液の一部がぐるぐる回ってしまって、体の方に回らないから、心臓がどんどんどんどん大きくなって行ってしまうということである。放っておくと亡くなってしまう。この子は1例目で、ICUから出てもうこの次の日のうちには退院した。こういう病気はキョロッと良くなる。一生、薬は要らない。普通の子供に戻れる訳です。
次のステップとして、この2月に、心房中隔欠損症、これは心臓を止めないといけない手術で、人工心肺という特殊な機械を使わないといけない手術で、さっきの手術よりはかなりレベルアップとなる。ただ、心臓外科の中では一番シンプルな手術で簡単と言ったら語弊があるが、そういった手術である。
ここに穴があいている。左心房と右心房の間に。これも圧の差があってこっちからこっちへ血液がどんどん流れるのでまた空回りする病気である。放っておくと、これも慌てる必要はないが長年放っておくと心不全を起こす。心臓を止めるためにこの人工心肺という装置を使って心臓に戻っていく血液を管を通して抜いてしまって、人工の肺を通してポンプで回しながら大動脈に返す。この間、心臓が止まっていられる訳だ。その間に手術をやってしまう。あの穴を塞いだらいいだけである。人工心肺の装置を彼、看護師だが、この装置をちゃんと勉強してこれから私が回ってくるので勉強しているところである。
これが手術の風景である。こちら手術台で、沢山の人がいる。今回は第一助手に日本人が入っている。執刀はザンビア人である。麻酔とナースとそれから人工心肺の装置がここにある。ちょっと大掛かりになる。この子が第1例目のICUに入ったところである
これは、ナースのYさんといってICUの指導をしている。この方は非常に熱心なザンビア人の麻酔科医でICUでもずっと付いてくれている。みんな熱心である、安い給料で。この子がICUから出て病棟でもう立ち上がっている。すぐ退院できた。この子も天寿を全うできる。
これが合同チームである。これからどんどんレベルアップしてもうちょっと複雑な手術も出来るようにこれからトレーニングを進めて行こうと思っている。
今、こういうところであって、残念ながら今回は何の助成金も取れていなくて、自己資金が今丁度底をついているところなので、頂いたお金を大事にうまく使って仕事を進めて行きたいと思っている。

  • 以 上